巨大な軍船も金箔10万枚の城もなんでもござれ! 信長天下統一の名脇役「丹羽長秀」のキレ者ぶりに迫る
弱肉強食の戦国時代に、天下をほぼ手中にしていた織田信長。その革命的な戦略を支えたバイプレーヤー(脇役)として考えられるのが織田四天王の一人、丹羽長秀だ。信長に「長秀は友であり、兄弟である」と言わせたほどの絶大なる信頼を得た男は、どんな人物だったのだろうか。
犬山城攻めで調略、難攻不落の猿啄城も攻略
天文4(1535)年、尾張・春日井郡で生を受けた長秀は16歳の頃、信長に仕えて桶狭間の戦いに出陣。その後、信長が美濃攻略に着手すると、長秀の“キレ者”ぶりが発揮され始める。
永禄6(1563)年の犬山城攻めでは「これ以上、無駄な血を流すな。犬山城は落ちる」と調略を仕掛け、犬山城の支城を寝返らせることに成功。永禄8(1565)年の美濃・猿啄城(さるばみじょう)攻めでは「正攻法では埒があかない…よし、城の水源をおさえよ!」と敵の給水源をおさえることで難攻不落の城を見事に攻略した。
巨大軍船を40日間で完成させるなど戦以外でも活躍
この際、総大将の長秀は先鋒に河尻秀隆を指名。父の弔い合戦であった河尻の奮戦は、長秀のもくろみ通りだったはず。以来、上洛を目指す信長のそばで、長秀は戦以外にも活躍していく。
琵琶湖用の巨大な軍船の建造を任され、40日間で長さ54メートル、幅13メートルの大船を完成させると、その後、若狭を与えられ織田家臣団初の国持大名に抜てきされたという。
安土城では大満足の信長から褒美に“休暇”
しかし、長秀の生涯最大の功績は何といっても総責任者を務めあげた「安土城」の築城だった。日本で最初に天主(天守)を備えた5層7階という前代未聞の巨大な城は、5階、6階部分が八角形の望楼型で、使われた金箔は10万枚! 内部は金碧障壁画のある豪華絢爛なものだった。この城の出来栄えには信長も大満足し、褒美として名物の茶碗と“休暇”を長秀に与えたという。