「死んだ人を乗り越えちゃって」豊川海軍工廠への空襲を経験 96歳が語る悲惨さ 語り継ぐ女子高生の思い
シリーズ「愛知県に残る戦争の記憶」です。豊川海軍工廠への空襲を15歳で経験した96歳の女性とこの空襲を次の世代へ語り継ぐ女子高校生の思いを取材しました。
豊川市にはかつて東洋一の兵器工場と呼ばれ、海軍の航空機や船などで使用する機銃や弾丸などを生産していた豊川海軍工廠がありました。
当時15歳だったせつさんは、学徒動員で働いていました。
小田さん:「戦時中なので、学徒動員は当たり前でした」
寮で生活しながら、弾丸の部品を検査する仕事をしていました。
小田さん:「機関銃の弾の部品ゲージに通して、高さや大きさを測り、不良品を分けた。楽しみ?戦争中なのでそんなものはありません。『ぜいたくは敵だ』という時代だもん」
働き続ける中、その日は突然やってきました。
小田さん:「10時半くらい?それでものすごい爆風だったので」
2500人以上が犠牲に「外へ出たら大惨事だった」 8月7日の空襲
終戦間際の8月7日。海軍工廠はアメリカ軍の標的となり、3000発を超える爆弾が落とされ、2500人以上の命が奪われました。空襲警報が鳴り、せつさんは工員に招かれて防空壕に入ったそうです。
小田さん:「防空壕と言っても土を掘っただけ。そこへ板をかぶせて、それにまた土を乗せて。でも、いつ空襲が終わったかは全然わからなかった」
あたりが静かになり、防空壕から出ると驚愕の光景が広がっていました。
小田さん:「外へ出たらトタンが空をすごいカランカランと舞っていて、あれだけは忘れられないですね。それでその辺には、いっぱい死んだ人いる。そんなこと構っていられないので、それを乗り越えちゃって。戦争中だったから怖いものは何もないですよ」
せつさんはその後、海軍工廠を出て近くの山まで必死に逃げました。
小田さん:「農家のところで、『かぼちゃの煮たのがあるから食べない?』と言ってくれて、それを呼ばれた(ごちそうになった)のです。とてもうれしかったですね」


















