経済学者・成田悠輔さん「日本が自動車産業一本足打法から脱却するチャンス」トランプ関税で変革求める
トランプ関税でモノづくりピンチ
対米輸出の3割を占める自動車に25%の追加関税を課されたままの日本。各自動車メーカーの見通しをまとめると、関税の影響額は、この1年間で数兆円規模に上る恐れがある。
帝国データバンクによれば、国内自動車メーカー10社のサプライチェーンにつながる企業は6万8000社。このうち実に76%が売り上げ10億円未満の中小・零細だ。もしも、アメリカでの現地生産が加速すれば、どうなるのか。
旭鉄工・木村哲也社長:
「小さな会社だと海外に来いって言われても行けない。結局、仕事無くなると廃業せざるをえない会社はいっぱい出ると思う」
日米交渉の行方によっては、日本のモノづくりを危うくしかねない深刻な事態なのだ。
昭和~平成の「日米自動車バトル」は14年
日米自動車バトルと言えば、かつてはもっと過激だった。振り返ってみると、始まりは1970年代のオイルショック。ガソリンが高騰し、アメリカの消費者は、燃費の良い日本の小型車を求めた。当時、ホンダの「シビック」などが人気で日本車の輸出はどんどん増えていった。
一方、シェアを奪われたアメリカでは、日本車をハンマーで叩き壊すパフォーマンス「ジャパン・バッシング」が起き、一気に政治問題化する。
1980年、日本が自動車生産世界一になると、アメリカの目はますます厳しくなる。そこでレーガン政権の時、日本は「自主規制」を導入、アメリカに輸出する台数を自主的に減らした。同時にアメリカでの現地生産を徐々に進めたのもこの頃。1982年のホンダを皮切りに、日産(83年)、トヨタ(84年)が現地生産を始めた。ところが、バトルは終わらない。
90年代に入ると、今度はアメリカ製の部品の調達を増やせ、増やさないと高級車に100%の関税をかける、などと迫ってきた。厳しい交渉を象徴するように、アメリカの代表が当時の橋本通産大臣の喉元に、竹刀を突き付ける場面が話題となった。結局、現地生産の拡大などでバトルは終わるが、自主規制から実に14年もかかったのだ。