「ここで死ぬんだ」火の海の豊橋空襲を生き延びた女性 体験をどう伝承していくのか模索する語り継ぐ人
体験者の高齢化が進んで語り部が減る中で、「空襲体験」をどのように後世に伝えていくべきか。戦後80年につなぐ、体験者と語り継ぐ人の思いを取材しました。
豊橋市に住む羽田光江さん(86)は79年前、624人が犠牲になった豊橋空襲を経験しました。
羽田光江さん:
「母に急かされて起こされて。寝起きでボーっとして(玄関)入り口まで来ると、空が赤く見えました」
アメリカ軍の爆撃機が豊橋の街を襲い、焼夷弾約1万5000発を投下した豊橋空襲。市街地は焼け尽くされ、624人が犠牲になりました。羽田さんや家族は生き延びましたが、自宅は全焼しました。
羽田さんは当時7歳で、国民学校の2年生。祖父と母と暮らしていました。外へ出たときには、街はすでに火の海。もう遠くへは逃げられない状況だったと話します。
羽田さん:
「祖父には『もう逃げたって助からない』と、はっきり言われました。『ここで死ぬんだ、覚悟しろ』と。小さく(丸く)なって上から布団をかけて、台の下に潜り込んでいました」
しばらくして助かったことに安堵したという羽田さん。しかし朝を迎えて家の周り見渡すと、何もなくなってしまった景色に思わず声を上げたといいます。
羽田さん:
「うわー、何この景色、と。愕然としましたね」
豊橋空襲の悲惨さを後世に伝える
羽田さんは約20年前から、小学校や中学校で豊橋空襲の体験を語り続けています。空襲の話とともに、国民学校で作成した書道や絵なども生徒に見せています。「つらい過去の体験を忘れない」との思いから、保存していたといいます。
当時は学校でも戦争一色。国旗を掲げた兵隊や軍艦、戦闘機などの絵のほか、筆で書かれた「ヒノマル」「クニヲマモレ」の文字も。「軍国主義のやり方だった」と話します。
そんな羽田さんの思いを受け継ごうとしているのが、豊橋空襲を語りつぐ会・代表の長坂すぎ子さんです。豊橋空襲を語りつぐ会は、空襲の体験と記録を後世に残していくために結成されました。5年前から長坂さんが代表を務め、羽田さんら体験者を招いて何度も講演活動などを行っています。