「戦争遺跡」は必要か 愛知県では新たに25件失われる 空襲体験者「戦争遺跡は生き証人」 #戦争の記憶

地域 コラム・特集 友だち追加

愛知県は2023年11月から2024年2月にかけて、県内に新たな戦争遺跡がないか調査しました。その結果、新たに114件の戦争遺跡が見つかりました。しかし愛知県の調査によると老朽化によって新しく建物が建設されたり、草が生い茂る空き地になっていたりと、県内の戦争遺跡が25件以上も失われたことが分かったのです。

戦争経験者が語る戦時中の記憶とともに、近年失われつつある「戦争遺跡」の実態に迫ります。

標的となった兵器工場の豊川海軍工廠(こうしょう)

79年前の昭和20年8月7日に起きた「豊川空襲」。豊川市内に3000発以上の爆弾が投下され、2500人以上の命が奪われました。アメリカ軍が東洋一と呼ばれた兵器工場の豊川海軍工廠(こうしょう)を狙い、爆撃したのです。

8月7日には「豊川市平和記念式典」が行われ、戦没者に哀悼の意を表すとともに、平和を祈りました。式典を見ていた野本弘幸さん(88)は、9歳で豊川空襲を経験。当時14歳の兄の則夫さんを亡くしました。則夫さんは学徒動員として、豊川海軍工廠で働いていました。

戦争体験を語る野本弘幸さん

式典のあと野本さんは、豊川海軍工廠にまつわる絵や写真などを展示した資料館に来ました。航空写真を前にして思い出したのは、あの日の出来事です。

野本弘幸さん:
「空の上を見ると、次から次へとB29がやってきて、爆弾を落としていったんです。(爆撃が)終わって夕方になって兄が帰ってこない、と。文化会館から少し行ったところの諏訪橋、そこまで見に行きました。すると堤防にずらーっと黒焦げ、泥だらけの遺体が並んでいました」

取材時に「豊川海軍工廠展」に展示された絵画作品

会場に飾られていた1枚の絵を見てあの日の記憶がよみがえります。いつも子どもたちの前で笑っていた母。兄を失い、泣いていました。

野本さん:
「ただ、おふくろが泣きわめいていたというのを知っているから。(母は)私を抱いて、兄の名前を呼んで泣く。それは私だけではなく、近くにも一人息子を亡くした人がいて、本当に泣いていました。戦争の実態は計り知れません」

おすすめの記事

おすすめの記事

アクセスランキング

アクセスランキング

ページトップへページトップへ